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本 尊
智証大師御作の不動明王像を本尊としています。
本覚院1
由 緒−行空上人と歌人『待宵小侍従』
本覚院は本来弘法大師が御自作の地蔵菩薩を安置された場所に在り、平安時代の建久年間、高名な歌人である「待宵小侍従」と呼ばれた太皇太后宮小侍従の願によって登山した行空上人が開基となっています。開創にあたっては寺伝に次の話が残されています。
それは行空上人がこの地で読経をつづけていたところ、出現した地蔵菩薩が光を放ち「汝、ここに住せよ」と告げられた、というものです。歓喜した行空上人は十二院を建立しましたが、上人が常に法華経を講じたところから「講坊」と称せられました。その後元禄年間、講坊を太皇太后宮小侍従の戒名に因み「本覚院」と改称し今日に至っております(今年2002年は太皇太后宮小侍従の没後800年にあたります)。

古来より伏見宮家菩提所であり、また源頼朝の子息である大友一法師丸以来十九代、尾張徳川、臼杵稲葉、大洲加藤、岸和田岡部等の諸侯の帰依を受けてきました。特に稲葉家との縁により歴代住職は稲葉の姓を名乗り、寺紋も稲葉家に由来する「角切折敷三文字」を用いております。

待宵小侍従以来、文人との交わりも多く、例えば江戸初期狩野派の巨匠である絵師狩野探幽は、大師流の書を学ぶために当院に滞在しております。探幽は当院に伝わる『恵果阿闍梨像図(重文)』を縮写しており、現在もそれを『探幽縮図』に見出すことができます。また近年では歌人の若山貴志子氏、哲学者の出隆氏などが当院に因んだ作品を残されています。

本覚院2
講坊−本覚院−西生院
本覚院古図
高野山の寺院は現在117カ寺。かつては数千もの小さな坊や庵があったといわれていますが、それが室町時代半ば以降には、大名や各地の講などとの結びつきから次第に発展して、現在の寺数に落ち着いて行く過程があります。それは当院も例外ではありません。右図は江戸初期の高野山古図の一部ですが、赤線で囲った箇所が現在の本覚院の場所にあたります。ここにも多くの寺院がありましたが、元禄以降、講坊が本覚院へと名を変え、有力大名などからの帰依が厚くなるにつれさらに発展し、次第に現在のような形へと整ってきたということがいえるのです。右の古図に名前が見える多くの寺院のなかに「西生院」があります。今でもこの西生院は名を残しており、本覚院の別院的な位置づけの寺として存続しております。
高野山古図 金剛峯寺蔵


本覚院ロゴ ©2002